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法話での学び

昨日は、法話に立ちました。

 

まだまだ未熟なので、

聞かれる方の胸に届く話ができず、

力不足を痛感致します。

 

受けたアドバイスは、

ゆっくりと大きな声で話しをすること。

早くなったりすると、

自信がなさそうに感じて、

胸に届いてこないと教えて頂きました。

 

こんなことをわざわざ教えてくだされる方は、

多くありませんので、

ありがたいアドバイスを真摯に受け止めていきます。

 

また、話をする前には、 参詣された方の悩みを聞いていました。

話をする事が仕事の1つではありますが、

聞くことも大切な仕事です。

 

形にとらわれず、 来られた方が喜ばれる様にしていきます。

なぜ仏教の講師になったのか 終

仏教の講師になり、

多くの方に話をする為に毎日学びは欠かせません。

 

本を読み、社会では何が流行り、

求められているのか。

 

これらを学んでいくと、

感じる事は、

若い人を取り巻く社会問題は、

なかなか改善されていない現実です。

実際に若者の自殺は2000年から人数は変わっていません。

2000年の0歳~29歳までの人口が約4500万人。

2017年の0歳~29歳までの人口が約3500万人です。

2017年は0歳~29歳までの人口の中で、

3162名もの尊いが失われています。

 

ですから、若者の自殺者の数が増えていなくても、

割合は増えていることになっています。

 

自殺者予備軍を含めると、

どれほどあるかわかりません。

 

そんな悩みを抱え、むなしさや苦しみを抱えている

若者に生きるチカラを与えて、

明るい未来を築いてもらいたいと思っています。

 

いじめの問題や、未来に対しての不安など、

様々な要因はあると思いますが、

生きづらい今日の社会の中でも

生き抜けるチカラを身につけてもらいたいと

思っています。

なぜ仏教の講師になったのか 5

今までなぜ仏教を学ぶようになったのかを、

書いてきましたが、続けて、仏教の講師になろうと

思ったことを書いていきます。

 

親の遺伝からか、世話好きであったことは、

以前にも書きました。

 

中学、高校では色々な人の悩み相談にも

乗っていました。

 

一緒に悩んで、解決して、

笑顔になってもらえることが嬉しくて、

進んで人の悩みは聞いていました。

 

大学に入り、仏教を聞くようになってからも、

仲良くなった人の悩みはよく聞いていました。

 

しかし、あることに気がついてしまいました。

 

それは、どれだけ悩みを聞いて、

一緒に解決しても、

また別の悩みがやってくるという事でした。

 

当たり前のことではありますが、

この事実に気がついた時は、

大変な脱力感がありました。

 

悩みを解決して、

少しでも明るく楽しく生きてもらいたい

と思っていましたので、

また別の悩みがやってくるならば、

麻酔でごまかしているようなものではないかと、

思いました。

 

もちろん、少しでも悩みを減らせることは、

素晴らしいことと思います。

どうでもいいとは思わないのですが、

なんて無力なのかと、

思い知らされました。

 

なぜ幸せ求めても、幸せになれないのか、

苦しみを嫌っているのに、辛い事、嫌な事はなくならないのか、

これらのことを仏教では深く教えられていることを知りました。

 

私自身が仏教を学んでみて、

夢を持つこともでき、変わることができたこと。

その経験と、仏教の教えを伝えることで、

より人のためになるようなことができると思い、

仏教講師になることに決めて、

大学卒業後、そのままこの道に進みました。

なぜ仏教の講師になったのか 4

仏教は確かに、

論理的であることは、

話を聞き続けていく中でわかってきました。

 

そんな私が、

仏教は、どこか違うと感じたのは、

いろは歌」を聞いてからでした。

 

いろは歌とは、作者不明ですが、

僧侶が書いたと言われています。

実際に書かれている内容が仏教の教えだからです。

 

そんな日本には馴染み深い歌が、

いろは歌です。

 

ひらがなを昔はこのいろは歌で覚えていました。

だから、基本のことを「イロハ」と言われます。

 

また、音楽も「ドレミファソラシド」の前は、

「はにほへといろは」で教えられていました。

 

小学校や中学校で、

暗記させられた方も少ないと思います。

 

これがその原文です。

 

いろはにほへと ちりぬるを

わかよたれそ つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみし ゑひもせす

 

1回も同じ仮名をが使われていないだけでなく、

意味のある文章になっています。

 

どんな意味かは、漢字に直すとわかりやすいので、

漢字に変換します。

 

色は匂へど 散りぬるを

我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見じ 酔ひもせず

 

「色は匂へど散りぬるを」とは、

色とは、これは桜のことです。

満開で香り高い桜もやがて必ず散っていく、

諸行無常を歌われています。

諸行とは、すべてのもの。

無常とは、常がない、続かないということです。

すべてのものは、移りゆくことを、

桜の花で歌われています。

 

「我が世誰ぞ 常ならむ」とは、

誰か、この世の中をおさめて、

永く安泰したものはあっただろうか、と

盛者必衰を歌われています。

 

「平家にあらずば人にあらず」と言っていた平家も、

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」と歌った

藤原道長も、今はもう残っていません。

 

「有為の奥山 今日越えて」とは、

有為とは、有為転変の略で、

いつ何が起こるかわからないことを表しています。

有為の奥山で、そんな不安が絶えない、

苦しみの絶えない人生を、

越え難い山、奥山で例えられています。

 

今日越えてとは、そんな奥山にいた人が、

今日、その山をこえたのだと歌われています。

 

山を越えただけでなく、心から幸せになったと、歌われています。

 

「浅き夢見じ 酔ひもせず」とは、

寝ぼけて、何か夢みて寝言をいっているのではないか。

酔っ払った人のたわごとではないかと、思う人があるかもしれないが、

そんな寝言でも、たわごとでもないのだ、と釘を刺されています。

 

後半2行だけならば、

心ひかれなかったのですが、

前半2行で、ここまで赤裸々に世の実相を

歌われた上で、

後半2行の歌が歌われています。

 

心から幸せになったとあるが、

どんな幸せなのかと疑問にも思い、

この世の中の実相を踏まえた上で、

断言されるその言葉に、

仏教はどこか他のものとは違うのではないかと、

思うようになりました。

 

 

なぜ仏教の講師になったのか 3

小さな頃から、

好奇心旺盛で色々と考える癖がありました。

 

なんでなめくじに塩をかけると、

消えてしまうのだろうか。

なんで嫌いなことでもやらなければならないのか。

青という色は、日本語ではアオといって、

英語ではブルーというのはなぜか。

なぜ生き物はこの様な進化をしてきたのか。

など、目についたものは、

何でも気になり、調べたり、

考えていました。

 

調べてもわからないこともありますが、

だいたいの疑問は、説明されているものばかりで、

それを知ることがとても楽しかったです。

 

そういう習慣があった為、

結果には、必ず原因がある(根拠のない確信)を持っていました。

だからこそ、

あらゆることが論理的に説明ができる、

説明ができないものでも、

科学が進歩すれば、

解明できるだろうと思っていました。

 

その為、

論理的に説明できるものは、

正しいという価値観を持っていました。

 

その点、

仏教は宗教というジャンルでくくられていますが、

とても論理的で、教えられていることは、

どれも繋がりがあるものでありました。

 

それもそのはずで、

仏教の教えの根っこには、

因果律があるからでした。

 

原因があれば必ず結果が起きる。

原因なく起きる結果は絶対にないというものでした。

 

原因がわからないことはあるけれど、

それは複雑な因縁が絡み合っているだけで。

原因がないこととは違う、というものでした。

 

風が吹けば桶屋が儲かるという言葉もあり、

私の中で、

この説明は反論の余地がなく、

確かにそうだなと納得しました。

 

しかし、その一方で、

調子のいいことを言って、

丸め込まれているのではないかという感触が

拭えず、納得しつつも、

まだ一歩ひいていました。

 

また、続きます。

なぜ仏教の講師になったのか 2

なぜ仏教を本格的に学ぼうと思ったのかについて、

続けて、書きたいと思います。

 

「呉服屋の息子がなぜ仏教講師に 2」にも書きましたが、

友達のために、何かをやることが好きでしたが、

結局は損得勘定でやっていたことに気が付き、

己の心の醜さを知らされました。

 

醜い心は、

人に言うことができず、

心の奥底に封印し、

見ない様にしていました。

 

中学、高校は部活動に励んでいたこともあり、

そういう心のことを忘れていたのですが、

大学に入り、

仏教の話を聞いて、

思い起こされました。

 

表面上はよいことをやっていても、

心の中は、醜いものを抱えている。

仏教の言葉では、これを「雑毒の善」と言われています。

 

毒のまじった善ということです。

善は善ですから、やらないよりもやった方がいいのですが、

そのやった善には毒がまじっている。

この毒と言われているのは、見返り心のことです。

 

これだけやったのだから、

お礼を言われたい、

お返しを期待する心です。

 

この話を聞いて、

なんで自分の心を言い当てられるのだろうかと、

驚き、人間の心を深く教えられていることに

感銘を受けて、

これはもっと学んでみたいと思い、

より深く学ぶ様になりました。

 

そして、そう学んでいく中で、

小さな頃からの悩みであった、

人生かけてなすべきことは何なのか

これが仏教に教えられていると聞いて、

一層驚きを深めました。

 

しかし、

仏教も宗教の一つであり、

サリン事件のことも知っていたので、

どっぷりとハマっていくのは、大丈夫だろうかと、

頭の隅にブレーキをかけながら、

学び続けていきました。

 

人生かけてなすべきことになりうるものは、

自分なりに条件を設けて、

それに反しないかどうかも、

検証していきました。

 

そのことについては、

また書いていきます。 

なぜ仏教の講師になったのか 1

なぜ仏教の講師になったのかを、

今回から書きたいと思います。

 

小さいな頃から、

自分の人生をかけても、

後悔のないことは何か

これをずっと探していました。

 

中学、高校と見つからなかった為、

大学時代に答えを見つけたいと思い、

大学入学前から、

答えを求めて色々と調べていました。

 

自分の視野が狭いから、

この答えがわからないのだと思い、

大学時代には色々な人と交流していく中で、

答えを見つけようと思っていました。

 

海外留学も検討していました。

また、サークルも、

他大学の人とも交流できるものを、

探していました。

 

そうしていく中で、

仏教を学ぶ機会がありました。

 

仏教と言えば、宗教。

宗教というと、

危ないものであり、心の支えとして、

盲目に依存する要素の強いものだという

イメージを持っていました。

 

仏教を聞いて、

驚いたことは、

人の心を深く教えられている事、

また、論理的な教えである事

の2つでした。

 

仏教国と言われていながら、

こんなにも仏教を誤解していたのだという事に、

びっくりしました。

 

案外、外国人の方が、

仏教を知っていました。

 

たとえば、

仏という言葉や、

天上天下唯我独尊という言葉です。

 

一般的には仏=死人と使われていたり、

天上天下唯我独尊は、この世で最も偉いのは、

私だと言っている言葉と思われています。

 

しかし、本来の意味は全く違います。

 

そんな誤解された仏教を、

学ぶようになり、

仏教で教えられていることは、

神秘的なもの、奇跡ではなく、

世の中や人間の本質であることがわかりました。

 

色々と学ぶ中で、

情報のあふれた時代で、

それでもなお力を持つものは、

本質であることを感じます。

 

そのため、

世の本質を学んでいこうと、

仏教を学び続けることにしました。