呉服屋の息子が仏教講師に!前向きマインドを🎁

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なぜ仏教の講師になったのか 4

仏教は確かに、

論理的であることは、

話を聞き続けていく中でわかってきました。

 

そんな私が、

仏教は、どこか違うと感じたのは、

いろは歌」を聞いてからでした。

 

いろは歌とは、作者不明ですが、

僧侶が書いたと言われています。

実際に書かれている内容が仏教の教えだからです。

 

そんな日本には馴染み深い歌が、

いろは歌です。

 

ひらがなを昔はこのいろは歌で覚えていました。

だから、基本のことを「イロハ」と言われます。

 

また、音楽も「ドレミファソラシド」の前は、

「はにほへといろは」で教えられていました。

 

小学校や中学校で、

暗記させられた方も少ないと思います。

 

これがその原文です。

 

いろはにほへと ちりぬるを

わかよたれそ つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみし ゑひもせす

 

1回も同じ仮名をが使われていないだけでなく、

意味のある文章になっています。

 

どんな意味かは、漢字に直すとわかりやすいので、

漢字に変換します。

 

色は匂へど 散りぬるを

我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見じ 酔ひもせず

 

「色は匂へど散りぬるを」とは、

色とは、これは桜のことです。

満開で香り高い桜もやがて必ず散っていく、

諸行無常を歌われています。

諸行とは、すべてのもの。

無常とは、常がない、続かないということです。

すべてのものは、移りゆくことを、

桜の花で歌われています。

 

「我が世誰ぞ 常ならむ」とは、

誰か、この世の中をおさめて、

永く安泰したものはあっただろうか、と

盛者必衰を歌われています。

 

「平家にあらずば人にあらず」と言っていた平家も、

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」と歌った

藤原道長も、今はもう残っていません。

 

「有為の奥山 今日越えて」とは、

有為とは、有為転変の略で、

いつ何が起こるかわからないことを表しています。

有為の奥山で、そんな不安が絶えない、

苦しみの絶えない人生を、

越え難い山、奥山で例えられています。

 

今日越えてとは、そんな奥山にいた人が、

今日、その山をこえたのだと歌われています。

 

山を越えただけでなく、心から幸せになったと、歌われています。

 

「浅き夢見じ 酔ひもせず」とは、

寝ぼけて、何か夢みて寝言をいっているのではないか。

酔っ払った人のたわごとではないかと、思う人があるかもしれないが、

そんな寝言でも、たわごとでもないのだ、と釘を刺されています。

 

後半2行だけならば、

心ひかれなかったのですが、

前半2行で、ここまで赤裸々に世の実相を

歌われた上で、

後半2行の歌が歌われています。

 

心から幸せになったとあるが、

どんな幸せなのかと疑問にも思い、

この世の中の実相を踏まえた上で、

断言されるその言葉に、

仏教はどこか他のものとは違うのではないかと、

思うようになりました。